あおもり見る知る掲示板
ふるさとの物語 第164回 亜墨利加国之人 ~どことなくユーモラス~
2020-07-03 16:27
津軽を紀行した彼の吉田松陰が、津軽海峡を頻繁に通過する外国船に危機感を抱いたように、19世紀半ばには、本県域近海への外国船出没は珍しいことではなかった。
1848(嘉永元)年3月20日、津軽半島北岸に異国船が現れた。アメリカの捕鯨船である。船は三厩沖に2艘、今別の袰月沖に3艘。本図は、その時上陸したアメリカ人船長(船頭)を描いたものである。
22日には、13人の船員が宇鉄村(旧三厩村・現外ヶ浜町)に上陸し、村を徘徊したという。多くの村人が家を捨て逃げ去る中、病のため逃げられなかった一人の男の家に、遂に船員二人が上がり込む。二人は大胆にも飲食をし、酒も飲み陽気に歌ったり踊ったりした。決して乱暴することはなく、むしろ病人を介抱し、薬を勧めた。帰る時、船員らは茶碗二個、箸一膳を求め、病人がそれに応じると喜んで持ち帰ったのだという。
絵に描かれた顔の、鼻の高さや目の鋭さからは、当時の人たちの異国人に対する強い警戒心や驚きをうかがうことができるが、一方でどことなくユーモラスにも見える。少なからず好奇心もあったのではないだろうか。
※画像:亜墨利加国之人物 船頭之者 (県立郷土館蔵 2F歴史展示室にて展示中)
※この記事は2020年6月11日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館主任研究主査 福士道太
ふるさとの物語 第163回 石見焼の水甕 ~北前船が運んだ陶器~
2020-07-03 16:26
家庭に上水道が普及する前、台所には水をためておく大きな甕(かめ)が必要であった。写真は、県立郷土館の民俗展示室に置かれている、つがる市木造川除(かわよけ)での収集品だ。赤茶色の釉薬(ゆうやく)と、肩部に見られる黒色釉の流しかけが特徴的で、古くは石見国(いわみのくに)とよばれた島根県西部で作られた石見焼と判断できる。製作年代は器の形から20世紀前半、明治時代の末から大正時代であろう。産地では「四斗」という規格なので、容量は約72リットルである。
産地に残る1918(大正7)年の資料では、東京で売られていた四斗サイズの価格は3円だという。『値段の風俗誌』(朝日文庫)によると、同年の東京における小学校教員初任給が12~20円、巡査の初任給が18円なので、今でいえば3万円くらいの品といったところか。びっくりするほど高額ではないが、安い買い物ではないので大切に扱われたのだろう。当館展示品は、大きなひび割れを補修した後、針金で補強している。
石見焼の水甕は、高温で焼き締められているため凍結に強く、寒冷地で重宝された。江戸時代の終わり頃から、北前船による日本海海運で県内には相当数がもたらされており、日本海および陸奥湾沿岸で特に目立つ。弘前市内の当館学芸員自宅には類品があるとのことで、内陸部でも使われていたようだ。また、東通村歴史民俗資料館や三沢市歴史民俗資料館にも陳列されており、津軽海峡を回って南部地方にも運ばれていたことが分かる。
読者宅にも眠っているかもしれないが、大量生産された品なので骨董(こっとう)的価値はほとんどないことを申し添えておこう。
※画像:県立郷土館に展示されている石見焼の水甕(高さ58㎝、口径53cm)
※この記事は2020年6月4日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館主任学芸主査 岡本 洋
ふるさとの物語 第162回 舟形木製品と櫂 ~完全な丸木舟 発見期待~
2020-05-29 10:51
縄文時代、北海道産の黒曜石や緑色岩で作られた石器が県内各地でみつかっていることから、津軽海峡を渡っての人・物の交流が頻繁であったことがうかがえる。海峡を渡る手段は舟や筏[いかだ]と考えられ、縄文時代の丸木舟は国内で170隻ほど確認されている。県内では野辺地町向田(18)遺跡で縄文前期末の丸木舟の先端部が1点見つかっている。一方丸木舟の存在は舟を模した木製品や土製品、舟に関する道具からも読み取れとれる。
写真は、三内丸山遺跡から2キロ南に位置する岩渡小谷[いわたりこたに](4)遺跡で出土した縄文前期末の木製品である。舟形木製品は、平らな底面から両端部に向かい緩やかに立ち上がり、端部は舟首のように尖らせてあり、まさに舟の形を模した製品である。おそらく容器として使われたものであろう。
また、舟を漕ぐための道具「櫂」[かい]も複数見つかっている。展示品は、櫂として使わなくなった後に杭に再利用されている。柄の上部が折れ曲がっていることから、本来の長さは1m近いものだったのだろうか。ただしこの櫂は、先端が薄く尖っていることから川や沼などの浅瀬を漕ぐ際に使うものと考えられる。
これらを眺めると、いつか県内でも丸木舟が完全な形で発見されることを期待してしまう。
※画像:写真上)櫂(長69cm幅7.3cm厚3.5cm、樹種はコナラ節)写真下)舟形木製品(長74cm幅9.5cm高6.1cm、樹種はコシアブラ)(青森県埋蔵文化財調査センター所蔵)
※この記事は2020年5月28日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館主任学芸主査 杉野森 淳子
ふるさとの物語 第161回 男人魚の図 ~見ると長生きする!?~
2020-05-29 10:50
江戸時代の終わりごろ、江戸で流行っていた人魚の絵である。「長サ壱尺二寸」(約36㎝程度)、「男人魚」の実物は、机上で十分に観察(鑑賞)できるくらいの大きさになるだろうか。この絵を包んでいた紙には、「此魚を見るもの長寿いたし候由(そうろうよし)」とある。絵をよく見てみると、舌がのぞく口にはとがった歯、上半身を支える両腕(前足?)の指先には鋭い爪、頭から背中、腕や胸にも細かい毛がある。
この魚を見ると長生きする、さらに次のような説明が続く。「此図 西国の諸侯より出シ候由 御名も審(つまびらか)ニ あり」。この絵は、「西国の諸侯」より江戸にもたらされたもので、人物の名も詳しくわかっていると。しかし、惜しいことに肝心な国名も人名も記されていない。西国の大名とは一体誰なのだろうか。
実は、ほぼ同じ人魚を描いたと思われるものが、県内にもう一つある。幕末から明治初めの弘前の画人平尾魯仙(ひらおろせん)(1808~1880年)と弟子たちが描いた博物画集(『異物図会(いぶつずえ)』弘前市立弘前図書館蔵)の「人魚の図」で、こちらは丁寧に彩色されている。安政年間には、このパターンの「人魚」の絵や実物(作り物)が江戸周辺に出回っていたようである。二つの人魚の絵は、描いた目的も異なり、描き手の技量にも差がある。また、寸法や出所についての記載も一致しないが、元をたどれば同じ「人魚」に行き着くのかもしれない。
※画像:「この魚を見る者は長寿になる」。絵は、弘前藩兵学者横山家が所蔵していた「男人魚の図」(県立郷土館蔵)
※この記事は2020年5月21日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館主任学芸主査 太田原 慶子
ふるさとの物語 第160回 貝に描いた「〇△□」 ~自然のまま 奥深い世界観~
2020-05-29 10:49
作者鈴木正治(すずきまさはる、1919―2008)は、青森市出身の彫刻家で、生涯精力的に制作活動をつづけ、彫刻のほか、墨絵や版画の制作も手がけた。以前も紹介したが、作品の中には、繰り返して取り上げられたテーマがあり、「○△□」もその一つである。
鈴木は、出光美術館で「仙厓展」を見て大いに感銘を受けたという。仙厓(1750~1837)は、禅僧として名高く、数々の反骨の逸話や一休さんのようなとんち話でも知られる。優れたお坊さんに与えられる三度の紫衣勧奨を辞退して生涯黒衣の僧であることを誇りとしていた。
晩年多くの「禅画」を描いているが、「〇△☐扶桑(ふそう)最初禅窟」も描いている。これは、墨で大きく〇△□が描かれたもので仙厓を代表する作品であるが、解釈する文が添えられていないため最も難解な作品とされている。この世に存在するものすべてにとって最も根源的な形態である〇と△と□という3つの要素が、仙厓の奥深い世界観を象徴的に示していると言われている。
鈴木はその生き方や作品に心惹かれ、その後の制作に大きな影響を受けている。「自然のままの形が最高だ」と語り、素材を生かして作品を仕上げるといった作風にも現れているようである。
青森市荒川の県総合社会教育センターの石彫「わ」にも〇△□のモチーフが用いられている。みなさまは、〇△□にどんな世界観を感じられるだろうか。
※画像:貝殻に墨で「〇△□」と大きく描かれた鈴木正治の作品(上が2003年作、同下は制作年不明、いずれも県立郷土館蔵)
※この記事は2020年5月14日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館主任学芸主査 中村 理香