あおもり見る知る掲示板 ヘルプ

4 / 11 ページ ( 16 ~ 20|51件 )

ふるさとの物語 第189回 疫病の形代(かたしろ) ~幾度の災厄乗り越え~

2020-12-04 09:53

ふるさとの物語 第189回 疫病の形代(かたしろ) ~幾度の災厄乗り越え~  現在、世界各地で新型コロナウイルスが猛威をふるう。17世紀から近代の津軽地方でも、疱瘡、麻疹、インフルエンザ、腸チフスとみられる疫病が定期的に発生し、多くの人命が失われた。家族全員が亡くなり、人がいなくなったムラ(集落)まであったという。現在のような医療体制や医薬品が無かった当時の人々は、必死に祈り、時にデマも流れた。
 明和7年(1770)正月に咳の病がはやり、老若男女が重病となった。人々は、前年冬、藩から蜜柑の荷が下されたとき、役人に付いて「異老(アヤシキオヤジ)」なる存在が来たから疫病が流行した、と噂した。
安永元年(1772)の冬、他国から、疫病の唄をはやし立てる人々が津軽地方にやってきた。すると翌年春から疫病の流行が始まった。寒気、高熱、発汗、腹が膨れる症状に苦しむ患者達は、100人のうち2、3名しか生き残れなかったという。
藩の命令で津軽中の山伏達が祈祷し、青森の海から疫病の神を送り出すため藁人形(形代)を流した。疫(ぼう)の神送りである。しかし数日後、流した人形が戻ってきた。人々は「ただ事ではない」と驚き恐れた。当時は、特効薬もなく、何年もかけて自然に収束するのを待つしかなかった。
 これらは五所川原市の旧家平山家が記した「平山日記」が語る疫病との闘いの一部にすぎない。我々はそのあまたの災厄を何度も生き抜いてきた強き人々の末裔である。

※画像:いまに伝わる「疫の神送り」(平川市八幡崎、平成初期ごろ撮影)=一部加工しています。
※この記事は2020年12月4日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸主幹 小山隆秀


ふるさとの物語 第188回 尻屋埼灯台       ~漁師ら守る明かり~

2020-12-04 09:45

ふるさとの物語 第188回 尻屋埼灯台       ~漁師ら守る明かり~  下北半島東端に位置する尻屋崎周辺海域は、潮流が激しく濃霧も頻発するため、古来多くの船舶にとって難所であった。航海安全と下北発展のためには、灯台が不可欠であるとし、明治政府に設置を請願したのは、会津から転封されながらも開拓者精神に燃えていた斗南藩であった。請願は認められ、着工から三年余りを経て1876(明治9)年10月20日、尻屋埼灯台は初点灯する。英国人技師R・Hブラントンによって設計された二重レンガ構造で、東北初の洋式灯台であった。その後の改良では、我が国初の霧鐘(後に霧笛)や電気を使用するアーク灯が設置されるなど当時の最先端技術が注がれた。このほか、本灯台の歴史を辿ると「怪火」という記録もある。
 大戦末期の1945(昭和20)年、本灯台は幾度の空襲を受け、損壊はもとより、当時の村尾標識技手が殉職する。翌年、まだ復旧されていないにもかかわらず、灯台から明かりが見えたと言うが者が相次いだ。また濃霧の中その明かりで助かったという漁師までも複数現れたのである。当時の灯台長は、この事案について公文書で灯台局に報告。ついに解明されることはなかったが、殉職された村尾氏の魂が灯台、そして地元の漁師らを守っていたのだと語り継がれている。

画像:東通村の尻屋崎にある尻屋埼灯台と寒立馬(かんだちめ)
※この記事は2020年11月26日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任研究主査 福士道太


ふるさとの物語 第187回 蕪島の縄文土器     ~漁労生活まざまざと~

2020-12-04 09:43

ふるさとの物語 第187回 蕪島の縄文土器     ~漁労生活まざまざと~  1955(昭和30)年、ウミネコ繁殖地として知られる八戸市の蕪島で遺跡が発見された。島の頂にある神社の境内と周辺の斜面が蕪島遺跡であり、現在は八戸市の遺跡番号1番の遺物散布地として登録されている。
 県立郷土館でも昭和40年代に同遺跡で採集された縄文時代早期の土器片を保管しており、写真は貝殻文(かいがらもん)土器と言って、アカガイのように殻に凹凸のある貝の縁を押し付けて文様が付けられている。貝殻文土器が作られたのは約8000年前のこと。この時期は気候が温暖で、縄文海進とよばれるように海水面は今よりも2㍍ほど高く、縄文人が積極的に海産物の利用を始めた時期にあたる。
 八戸市博物館が所蔵する音喜多(おときた)コレクションの蕪島遺跡採集資料には、貝殻文土器のほか石鏃(せきぞく)や石匙(いしさじ)、石錘(せきすい)、石斧(せきふ)、磨石(すりいし)など、島を訪れた縄文人の生活道具一式が含まれている。石錘は魚を取る網の錘(おもり)なので、蕪島周辺で漁が行われていたことが分かる。また、磨石という木の実をすりつぶす道具と調理用の土器があることから、この場所で食事をしたことも確かである。島の周辺を漁場とし、時には上陸して寝泊りすることもあったのではないかと想像できる。                        

※画像:八戸・蕪島遺跡で採集された貝殻文土器。左上の土器の長さは4センチ(県立郷土館蔵)
※この記事は2020年11月19日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館学芸主幹 岡本 洋


ふるさとの物語 第186回 緑色岩製磨製石斧    ~北海道から渡った貴重品~

2020-12-04 09:41

ふるさとの物語 第186回 緑色岩製磨製石斧    ~北海道から渡った貴重品~  木の伐採・加工するための道具である磨製石斧には、緻密で硬く粘りがあり折れにくく、かつ成形しやすい岩石が選択される。県内産の閃緑岩(せんりょくがん)や緑色凝灰岩などのほか、北海道産の緑色岩・青色片岩が多用されていることが近年分かってきた。 
 緑色岩は、日高地方の沙流川(さるかわ)・額平川(ぬかびらがわ)で採取される。青みがかった縞状模様があることから「アオトラ石」とも呼ばれる。県内では縄文草創期後半(約1万2000年前)の太平洋側に出現し、前期以降県内各地で出土している。さらに前期末には東北地方全域や、茨城県、神奈川両県にもある。
 この石斧を製作した遺跡が、下北半島沿岸に数カ所で確認されている。むつ市大畑地区の水木沢遺跡(前期)もその一つ。石を擦り切る道具、分割材、加工途中のものが出土している。
他の石材に比べ、緑色岩は重くて大型のものでも折れにくく、木になじむことから石斧に最も適した石材として縄文人に好まれたものと考えられる。
 実は、緑色岩の石斧は、北海道産黒曜石よりも先に青森県に渡ってきた産物であり、前期には分割された石も多数持ち込まれている。この石斧の出土数や分布域から、緑色岩がいかに優れたもので、縄文人が欲した貴重品であったことがうかがえる。

※画像:水木沢遺跡出土の磨製石斧の製作を示す資料。
   ①分割された石 ②擦切具(粘板岩製)③加工途中の未製品 ④完成品=むつ市教育委員会蔵。
   写真上は、石斧の使用(柄は復元)
※この記事は2020年11月12日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任学芸主査 杉野森淳子


ふるさとの物語 第185回 蓑虫山人と彗星     ~ユニークな絵日記~

2020-12-04 09:40

ふるさとの物語 第185回 蓑虫山人と彗星     ~ユニークな絵日記~  今年は、放浪の画家蓑虫山人(土岐源吾、1836-1900年)の没後120年にあたり、生誕の地安八町(岐阜県)でも記念展が開かれ、新しく作品が確認されるなど関心が高まっている。
 蓑虫は江戸末期の美濃に生まれ、十代半ばから旅の生活を送った。終焉の地は名古屋である。生活用具を入れた笈を背負って旅を続ける自分の姿を、枝で風に吹かれるミノムシに重ねたという。彼の足跡は、独自の視点と筆致で描いた各地に残る絵日記でたどることができる。
 明治10年代、彼は東北地方を巡り歩く。現在、青森県はじめ、ゆかりの地各所に残されている大量の絵日記資料群のうち、津軽地方での滞在記録である明治15年前後の絵日記(「山人写画」個人蔵)はそのユニークさが際立つ。下図は、明治15年10月20日夜、蟹田での野宿の図。蓑虫本人と思しき人物がのんびりと横になっている。傍らにはトレードマークの笈。陸奥湾には漁火が浮かび、よく見ると画面中央、低空に彗星が見える。当時錦絵にも描かれ評判になった巨大彗星(グレートセプテンバーコメット)である。遠く離れた北の地で、故郷のことでも思い出しているのだろうか。

※画像: 「東津軽郡蟹田における野宿の図」(蓑虫山人写画=みのむしさんじんうつしえ)=」、個人蔵)
※この記事は2020年11月5日付の東奥日報朝刊に掲載しました。

投稿者:当館主任学芸主査 太田原慶子