あおもり見る知る掲示板
ふるさとの物語 第204回 八甲田の火砕流 ~しま模様に「海」の跡~
2021-03-30 10:03
青森市の鶴ケ坂から大釈迦にかけて、土砂を採取してできた高い崖が点在している。シラス(白砂)採取場と表示されている所もあるように、多くの崖は白っぽい色をしている。シラスとされるのは、八甲田火山群の活動によって噴出した大火砕流が堆積したもので、火砕流の発生は70万~60万年前のことと考えられている。
写真にある崖では、手前の地層がはっきりと3層に分かれていることが確認できる。一番下の地層にはやや斜めに傾いた乱れのある縞模様が、その上の地層には水平な縞模様が見られ、一番上の地層には縞模様が見られない。地層の縞模様は、流れのある水中で土砂が堆積したことを示す。
一番下の地層は砂や礫が堆積したもので、海にすむ貝の化石を含んでいる場所もある。その上の2地層は火砕流の堆積物であるが、下の地層には縞模様が見られることから海中に堆積したとわかる。つまり、70万~60万年前のこの場所は浅い海で、そこに大火砕流が流れ込んで海を埋め立て、その上にさらに厚く堆積したことが読み取れる。
※画像:青森市鶴ケ坂の崖に見られる地層(2004年9月撮影)
※この記事は2021年3月25日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館学芸課長 島口 天
ふるさとの物語 第203回 カマイルカの頭骨 ~鼻の位置は頭の上~
2021-03-30 10:03
以下に掲載している写真は、陸奥湾の茂浦島付近の海底から引き上げられたカマイルカの頭骨である。寄贈者の家族が、昭和30年代に漁をしていてこれを引き上げた。何度海に戻しても網にかかるため持ち帰り、自宅に祀っていたものである。
カマイルカは、背中の中央に大きな湾曲した背びれがあり、鎌を連想させる形のためこの名がついた。また、背びれは暗灰色と白の2色に分かれている。小型で活発にジャンプするこのイルカは、春から夏にかけて陸奥湾を回遊し、多い時には300頭を超える大群を船から見ることができる。餌となるイワシを追って移動している。津軽海峡や陸奥湾で見られるイルカは、90%以上がカマイルカである。
イルカで特徴的なのは、鼻の位置である。写真の頭骨で赤く囲んである大きな穴2つが鼻穴になり、上を向いている。イルカは鼻の位置が頭の上についているため、海中での息継ぎが簡単にできるのである。水族館に行く機会があれば、是非鼻の位置を確認していただきたい。
※画像:陸奥湾でひき上げられたカマイルカの頭骨。赤い丸部分が鼻穴
※この記事は2021年1月28日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館研究員 片山卓思
ふるさとの物語 第202回 青森駅舎 ~移り変わる県都の玄関~
2021-03-30 10:02
青森駅は1891(明治24)年9月1日、日本鉄道により上野-青森間の鉄道の終点として開業した。後の青函連絡船の運航も相まって、本州-北海道間の人の移動や物流の一大拠点となった。
開業当時の初代駅舎は、正面口が現在の新町通りより北側の安方通り(現在のねぶたの家ワ・ラッセ前から東に続く通り)に面していたが、1906(同39)年、駅拡張などの理由により、2代目駅舎になる際に、正面口が新町通りに面した場所に移転した。3代目駅舎は35(昭和10)年から使用され、現在の駅舎は59(同34)年12月25日に落成した鉄筋コンクリート2階建ての4代目駅舎である。
写真は3代目駅舎を撮影したもので、背中に大きな荷物を背負って駅舎から出てくる「担ぎ屋」と呼ばれた行商人や、そりに荷物を載せて運ぶ人、写真中央奥の駅舎付近には三輪自動車も写っている。この3代目駅舎は正面口が南東方向を向いて建てられ、45(同20)年7月28日の青森空襲の際も焼失を免れた木造の建物だった。
今月27日から新しい5代目駅舎が使用開始となるため、4代目駅舎の役目も終わろうとしている。青函連絡船の廃止や新幹線の開通などにより、青森駅自体の役割は変化してきたが、新たな駅舎となって次の歴史を刻んでいくこととなる。
なお、今回紹介した写真は、県民福祉プラザ(青森市)で14日まで開催している連携展「青森市の風景~昭和時代の青森市にタイムスリップ~」でも展示している。他にも、昭和30~60年代の青森市の懐かしい風景写真を展示しているので、ぜひご覧いただきたい。
※画像:昭和30年代前半ころの、冬の3代目駅舎(鎌田清衛氏撮影)
※この記事は2021年3月11日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館研究主査 滝本 敦
ふるさとの物語 第201回 テンマさま ~謎多い“山の女神”~
2021-03-30 10:01
コンセイ、ニワタリ、ホウリョウ、ウンナン、ランバ、テンマ--これらは東北地方などで古くから信仰されてきた神々の名前である。盛岡藩領内の社寺をリスト化した『御領分社堂』(18世紀)をみると、上記の民俗神のうち、現在の青森県域に偏って分布するのが「テンマ」神である。いまも下北・南部地方では「テンマさま」「オデンマさま」といってこの神を祀る社が広くみられる。青森ゆかりの神といえるだろう。
その割には聞いたことがないという方も多いかもしれない。理由の一つは、「テンマ」という語音の類似から、現在は「天満宮」として祀られているケースがあることだ。その場合、祭神は菅原道真(天神様)とされ、ルーツは隠されてしまう。
これを確かめる手がかりがある。お近くの「天満宮」に男根形の木や石が奉納されていないだろうか。もし奉納されていたら、本来はテンマ神を祀る社だった可能性がある。
1793(寛政5)年、菅江真澄は東通村上田屋を訪れ、テンマ神の祠に男根を象った石が数多く奉納されているさまを記している。では、なぜテンマ神に男根が奉納されるのか。実はこの神は山の女神であるらしい。山の神は男根を喜ぶといわれ、その形代を奉納する習俗が各地にみられる。
一方、五戸出身の民俗学者・能田多代子によれば「テンマ」は丘陵地帯の一角にある崩れやすい地形を意味する方言でもあるという。地形や地名との関連を含め、まだ謎の多い神である。
※画像:「テンマさま」の像(青森県立郷土館・常設展示室)
※この記事は2021年3月4日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館学芸主査 増田公寧
ふるさとの物語 第200回 円覚寺の竜灯杉 ~髷納め航海の無事に感謝~
2021-03-30 09:59
中世から蝦夷地と日本海沿岸の港を結ぶ北国海運の寄港地となっていた深浦は、藩政時代になると弘前藩領内の出入りを監視する役所が置かれた「九浦」の一つに組み込まれ、重要港として一層発展していった。
また、深浦の地形は北の行合崎、西の入前崎に囲まれた深い入り江であることから、江戸時代中期から明治時代にかけて日本海を往来していた廻船、いわゆる「北前船」が順風を待つ「風待ち港」として隆盛を極めた。
このようなことからか、深浦町内には航海の安全を願う神社や仏閣、信仰の対象とされてきた巨木などが散在している。
江戸時代のある日のこと。深浦沖で一艘の船が暴風雨に遭遇。荒れ狂う波に為す術がない船乗りたちは、命の次に大事な自分の髷(まげ)を切って一心に無事を祈った。すると竜神様が宿った巨木「竜灯杉」の梢から一条の光が放たれた。船はその光に導かれ無事に難を逃れたのだという。この伝説が、いつ頃からか北前船の船乗り達から信仰を集め、航行の無事に感謝し、髷を奉納するようになったという。同町の澗口観音円覚寺には、船絵馬のほか全国的にも珍しい「髷(まげ)額(がく)」が納められている。
ちょんまげを切ったザンギリ頭は、当時命がけの航海を生き抜いた船乗りの勲章だったかもしれない。
※画像:深浦町円覚寺にある「竜灯杉」(筆者撮影)
※この記事は2021年2月25日付の東奥日報朝刊に掲載しました。
投稿者:当館主任研究主査 福士道太